写真と芸術

7/5、デリーからジャイサルメールへ行く途中、狭い空港でトランジット 10時間という地獄を味わっている
暇なので写真芸術に着いて適当に書いて行く
ちなみにこの話には終着点がない


さて、
僕は日本写真芸術学校へ通っている

写真芸術

である

写真にとって芸術(アート)とは何なのか

今回はそんなお話
(まああんまり詳しく無いから思う事をダラダラ書くけど)




さて、



芸術と言えば何を連想するか

絵や彫刻、写真や書道、舞台などのショーも芸術と言える(音楽も)

一概には言え無いが、どれもオリジナルの作品は鬼高い
何十億もする

何で高いか、
ピカソの絵とか小学生でも描けそうだ




はい、
もともと写真や絵は芸術ではなかった
写真は遥か昔、記録的な要素しか無かった、偉人の肖像画などの事だ
絵は古代人が狩猟の方法を伝えるために書いたとされる

この辺りの写真や絵の価値はまだ分かる、合理性を持っている


しかし、14世紀に入り写真や絵は技術や文化の伝承や記録の為の「道具としての存在」から「装飾」へと進化する


つまりは合理性を欠いた産物である
ピカソも晩年はキュビズムなどの作品を製作している
あの絵に何の合理性があるだろうか?
マルセル・デュシャンの泉はただの便器だ



さて、
写真に話を戻して
昔は偉い人撮るなどの需要しか無かった(合理的な写真)が、次第に非合理的な写真へと進化した
18世紀末、写真は「個性」を持つようになる
そして今の現代アート(コンテンポラリー)に繋がる


非合理的な物への進化(昇華)





アートとしての写真の価値とは何なのだろうか

それは時代によって移り変わってきた

リアリズムを追求した時代
決定的瞬間を収めた写真がイイとされていた時代
決定的一瞬よりも「そこに流れる時間」を写しとめた時代(ニューカラー)

こんな感じでトレンドはどの時代にもあるし、古典的な技法もそのまま残り続けた

そうなると
「新しいものが勝ち」
の時代に入る

たしかに80年代のニューカラーは作品に使えるカラーフィルムの登場という技術的な進歩がもたらしたアートだ

2000年に入りデジタルの時代が訪れた
Photoshopなどを駆使した合成写真やCGアートなどが登場し、写真の定義が拡大された

そして2018年
今の時代にアートをやろうとする人々は何をすればいいのか?

極端な話、今の多くの写真家たちは前例のある写真を撮っている

構図が似ている
技術的には同じこと
意図が同じ

これらはアートとして認められない節がある

もちろん撮影者は世界に一人だけなのだから世界でたった一つの作品とも呼べるがそしたら地球上の人間すべてが芸術家になれる

意図が独創的で目新しい写真
そんな理想を叶える作品は今の時期に制作するのは非常に困難である



制限の中の制限

誰かがやったことあるなら、もっと尖った個性を主張しようとする

そうやって写真はどんどん狭くなっていく

とある誰かがマクロレンズで写真を撮った
その後、更に倍率の高いレンズで撮るようになった
そして更に高倍率なレンズで...
最終的に原子を写しとめた作品が出来上がる

こんな感じで作品は狭くなって行く
考え方もより一層ぶっ飛んだものになって行く

しまいには真っ黒な写真の展示が行われるかもしれない(もう既にあるかもしれない)

4分33秒という楽曲がある
これは演奏が始まってから終わるまで誰も何も演奏しない曲だ
これぞまさに制限の中の制限

この制限から逃れる術は無いのだろうか
人間辞めればいいのでは?
(神になればいい)

アートの範囲は飽和しつつある
カメラは良くも悪くも自分で撮らないと写真は生まれない
スマホの進化によってプロと素人の差が縮んできた

最初にも書いたが、この話には終着点がない
あと30分でボーディングタイムだからこれで終わり


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